尼厳城(長野市松代町東条)

 「雨飾城」とも書き、「東条城」ともいう。
 長野盆地南東端、松代の東にひときわ目立つ岩山が聳え立つ。
 標高は780m、比高は400mを越える山である。
西から見ると鋭角の三角形であるが、南や北から見ると台形の山である。
 斜面は急であり、岩が剥き出しで一部は絶壁である。
麓から見上げると圧しかぶってくる位の威圧感である。
 こんな険しい山の上に城がある。
下の写真は南西側の竹山城から見た尼厳山である。

とにかく登るのが大変である。
城址見学なんかではない。完全な登山である。
 登るルートは西側から登るルートと裏側、東光寺側から登るルートの2つがあるが、道はあるようなないような曖昧さである。
 ある場所には道があり、途中で途切れ、また道が現われたりする。
ともかく、踏み跡らしい所を進んでいくしかない。

この城には西側の尾根ルートから登った。山頂までは1.5時間ほどを要する。
 山裾には古墳がいくつかある。
所々岩場で大変急な登りである。
良くこんな山の上に城を作ったものである。

 途中に石垣を組んだ曲輪らしいものがあるが、これが城郭遺構であるかどうかは不明である。
 ただし、この石垣は付近の霞城、鞍骨城、鷲尾城のものと非常に似ている。

 木々が多く、眺望は余り良くないが、それでも木々の合間から見える下界の風景は素晴らしい。
 最後の岩場には石門のような場所があり、ここを過ぎると岩場は少なくなり標高720m地点に一辺15mほどの三角形をした馬場のような平坦地がある。
 ここを30mほど登るといよいよ城域である。

まず、@の二重堀切に出る。
2つの堀は北側で合流し、再び2つに分岐して竪堀になって斜面を下る。
 その合流点には土壇がある。主郭側の堀の深さは4m程度である。
 ここを過ぎると6の曲輪があり、小堀切を挟んで曲輪5になる。
この2つの曲輪を併せて50mほどの長さになる。
 そこを過ぎるとAの堀切である。


深さは4mほど。次に曲輪4があり、再び二重堀切Bとなる。
 堀間にある土塁3は南側が腰曲輪になっている。
 最後の堀切を超えると高さ8mの切岸が聳え、主郭である。

10m四方の腰曲輪があり、2m上が本郭である。
20m×10mほどの小さなものであるが、内部は平坦である。東に石の列がある。
 本郭の東は4mほど下がって3方を腰曲輪2が取り巻く、幅は7mほどである。
本郭の南東の切岸は石垣で補強されている。

 さらに南東下には4mの高さをおいて2段の曲輪がある。
北東側7m下は3の曲輪があり、その間にCの竪堀が斜面を下る。
 @の堀切から主郭部までの長さは約170m、標高差は30mほどである。
 しかし、幅は本郭周辺を除いて10mほどに過ぎない。
南の麓、善徳寺から見る尼厳山。覆い
被さって来るような迫力がある。
西側尾根の途中から見た長野市方向。
左の山が金井山城、右手奥に旭山城
と葛山城が見える。
左の写真撮影位置から撮影した松代の
町並み。右手に海津城が見える。
山腹にある石垣。おそらく城郭遺構であ
ろう。
主郭部入り口近くにある。石の門? 7の曲輪。1辺15mほどの三角形をして
いる。
@の二重堀切。 6の曲輪。内部は凸凹している。幅は10
mもない。た
Aの堀切。
曲輪4から見た本郭方向。3の曲輪とB
の堀切が間にある。
Bの堀切を越えるといよいよ本郭であ
る。
本郭内部。東よりに石の列がある。
本郭腰曲輪2東南下にある石垣。本郭
の補強用と思われる。
曲輪2南西下に展開する曲輪群。 本郭北東下のCの竪堀。ほとんど自然
地形に近い。

 こんな山の上にあるのにも係らず、堀や曲輪ははっきりしており、造りもちゃんとした中世の尾根式山城であった。
 しかし、何でこんな山の上にしっかりした堀切を持った城を造るのであろうか。

 第一、ここまで登ってくるだけでとんでもない労力を要する。
 たとえ敵が登ってきたとしても上から岩を落とすだけで撃退可能である。
 それでもこれだけの設備を造るほど、城主は心配性であったのであろうか。
 それともそれほどの緊迫した状況であったのであろうか。
 しかし、正攻法ではこの城は落とすことはできない。

 ただし、この城には水場がない。篭城できる人数も多くても200名程度である。
 たとえ篭城されても、ほっておけば水と食料が底をつき、降伏せざるをえなくなるであろう。
 この城からの出撃も難しい。何しろ下山も1苦労である。
 その間に迎撃体制を採られたら200位の兵力では何の役にも立たない。
 短期間、臨時に退避して後詰が到着するまで持てばOKという城であろう。
 しかし、この山の上に旗を林立させたら下にいる者にとっては、かなりのプレッシャーを感じるであろう。
 それだけが目的の城なのかもしれない。

 築城は地元の土豪、東条氏と言われる。当然、詰めの城として築いたのであろう。
 戦国時代、この地は武田氏の侵略に晒される。
 付近の土豪が次々と謀略で落ちる中、東条氏は最後まで武田氏に抵抗する。

 このため、東条氏の諜略には専門家の真田幸隆が当る。
 真田幸隆が落としたということになっているが、これは攻撃で落としたのではなく、諜略で落としたということであろう。
 川中島の合戦では武田信玄が真田幸隆にこの城の城番と整備を命じている。
 今に残る堀切等はこの時のものであろう。
 海津城が完成した時点で廃城になったと言われる。